- 最初に目指していたのは学校の先生。ある出来事が医師を目指したきっかけに。
- 縁もゆかりもなかった新潟県。僕が今もここにいる理由とは?
- 業界間にある溝。医療の枠を越え「その人がその人らしく生きられる」街づくりに挑む。
医師を目指したきっかけを教えてください

一枚の張り紙との出会いが、僕の人生を変えました。
幼い頃から祖母と過ごす時間が何より好きでした。その祖母が60歳を過ぎて亡くなり、人の命の儚さを痛感したことから「人に関わる仕事がしたい」と思うようになりました。身近にいた学校の先生への憧れもあり、当初は教育学部への進学を考えていました。
そんな高校2年生のある日、教室の掲示板に貼られていた一枚の張り紙が目に留まりました。タイトルは「病気ではなく人を診るということ」。大阪医科薬科大学の鈴木富雄先生による講演会の案内でした。
医師は「病気を治す人」というイメージしかなかった私にとって、その言葉は強い印象を残したのです。
実際に講演を聴き、総合診療医は病気だけでなく、その背景にある生活や家族、心にも寄り添う存在だと知りました。そして「総合診療医は、あなたを診る専門医なんです」という言葉に衝撃を受け、この道に進みたいと直感しました。
翌日には担任へ医学部志望を伝え、一浪を経て医師の道へ進みました。
学生時代について教えてください

「やってみたい」を大切にした学生時代でした。
周囲からは意識が高い学生に見えたかもしれませんが、当時の自分は純粋に「色々な世界を知りたい」という好奇心が強かっただけでした。
大学時代は、キャリアや性教育、スライドデザインなど教養を幅広く学ぶ医療系学生団体に所属し、総合診療を学ぶ団体では関西代表として地域医療に関心をもつ仲間と刺激し合っていました。
一方で、勉強一色ではなく、他大学のサークルで交流を広げ、塾講師やアミューズメントパークのクルーなど多様なアルバイトも経験しました。余白のある学生生活を意識して過ごしていたと思います。こうした経験が、今の自分が大切にしている広い視野で物事を見る姿勢を育ててくれたのだと思います。

その一言で、火がつきました。
第一志望の名古屋徳洲会総合病院に向けて準備を進めていましたが、マッチングで想定外の結果となり、途方に暮れていました。
そこで、学生時代の勉強会でご縁のあった松本晴樹氏(当時、新潟県福祉保健部長として出向中の医系技官)に連絡を取ったところ「異次元のチャレンジをしよう」という一言をいただきました。その言葉に驚きつつも、どこかで火がついたような感覚があり、新潟へ行ってみようと決意しました。
話を聞くと、当時の新潟県は医療指数が全国最下位。打開策として、有名病院でも研修できる「たすきがけ研修」を導入していると知りました。第一志望がアンマッチだった背景には自分にも改善点があると感じており、その原因を修正するためにも、この制度を活用して名古屋徳洲会病院で研修したいと強く思いました。
さらに、メイン拠点となる新潟の下越病院も総合診療に力を入れており、ここなら学べると思えたことも大きかったです。ただ、学生時代は大きな病院で経験を積むと想像していたため、縁もゆかりもない新潟へ飛び込むことは、正直大きな決断でした。
それでも、あの時、松本先生からいただいた「異次元のチャレンジ」という言葉を信じて踏み出したことが、今につながっています。
新潟で研修を始められてみていかがでしたか?

地域課題に「自分ごと」として向き合いたいと思いました。
新潟県では、初期研修と併せて「イノベーター育成臨床研修コース」を選択することができます。地域課題をロジカルに分析し、現実的な解決策を検討することを目的としたプログラムです。
今、日本では全国的に、医療資源の偏在や人材不足、病院の赤字経営など、さまざまな課題が顕在化しています。このコースでは、そうした課題を整理し、改善の方向性を考える方法を学びました。
2年目には、新潟県津南町の地域医療課題に携わる機会がありました。津南町は高齢化率が高く、医師不足が明らかで、医療・介護・生活支援の体制づくりなど複数の課題が重なっています。解決策を模索する中で「誰かが来るのを待つ」のではなく、自ら当事者として関わることが最も現実的な一歩になると考え、初期研修後も新潟に残る道を選びました。
現在は、津南町の病院で総合診療専攻医として勤務し、地域の暮らしを支える医療に取り組んでいます。

医師3年目で、病院運営や地域医療体制の整備にも携わっています。
着任当初は、院長を含めた病院全体に「現状維持」の空気があると感じ、改善の必要性を共有することから取り組みました。職員へのアンケートや院長との対話を重ねる中で、組織の意識が少しずつ前向きに変化していく手応えがあります。
現在は病院経営にも参画し、病床区分の見直しを提案しました。病床数を調整して地域包括ケア病棟に集約し、運用しています。地域包括ケアシステムが円滑に機能するよう、各部署の目標設定をサポートし、複数の視点から組織を整理する考え方を取り入れながら、継続的な対話を通じて改善につなげています。
さらに、医学生向けの地域医療体験プログラムや地域住民への健康講話、近隣の看護学校や医学部での授業も担当し、地域医療の理解促進と人材育成に取り組んでいます。
医師3年目としては珍しい役割かもしれませんが、できることを1つずつ積み重ねているところです。
活動の原動力について教えてください

医療の枠を越えて、地域の未来づくりに挑みつづけます。
医師になった理由ともつながりますが「病気ではなく人を診る」という考えが根幹にあり、今も総合診療の実践の中心にあります。
人には生活や文化といった背景があり、新潟には地元・兵庫とは異なる文化がありました。田舎ならではの習慣に触れる機会も多く、知ること自体が純粋に楽しいんです。こうしたシンプルな楽しさが、日々の原動力になっているのかもしれません。
休日には、ボランティアでイベントスタッフをしたり、田植えをしたり、狂言の舞台に立ったり、近隣の中学校や高校でカウンセリングを担当したりもします。もちろん知識欲もありますが、それ以上に、関わる人の背景や価値観を知ることが好きで、気付けば多趣味になっていました。
医師は私にとって天職であり、総合診療医として働けていることに強い充実感があります。
これからの展望について教えてください

地域とともに未来をつくる医師でありたいです。
最近では、大阪万博にも携わり、全国の中学生、高校生が社会課題に実装するプロジェクトのフォローをしました。
「若い力は社会を変える可能性を秘めている」と強く感じています。若いからこそ多角的な視点をもち、柔軟性をもって社会に向き合える。現状を突破する力が備わっていると思っています。
社会には医療のみならず、さまざまな課題が溢れ返っています。私の住んでいる新潟県津南町もそうです。今の日本は、あちこちに地域ごと沈みかねない現状があるので、これからの時代は医療の枠に捉われず地域全体で課題に取り組み、みんなで同じ方向を向いていくことが必要です。
まずは、総合診療医として、そして1人の「町の人として、地域包括ケアシステムの構築に力を尽くしていきます。

地域とともに未来をつくる医師でありたいです。
現在は、教員免許の取得を目指して大学にも通っています。将来的には、医師としての視点と教育の視点をかけあわせ、地域の街づくりを本質的に支える存在になりたいと考えています。
社会には、医療と教育を始め、分野ごとに溝や断絶が残っています。その境界を越えて学びを深めることで、暮らし全体を見渡す視点、すなわち「人を診る」姿勢につながるはずです。
これからも、人と地域の暮らしに寄り添いながら歩み、その人がその人らしく生きていくことのできる地域づくりに貢献していきたいです。





千手孝太郎(医師)
第一志望とのアンマッチを転機に新潟へ飛び込み、人口減少が進む津南町で総合診療医として地域医療に従事。病院運営や地域包括ケア、人材育成にも若手ながら関わり「病気ではなく人を診る」を軸に地域課題の解決に挑む。人々の暮らしに寄り添い「その人がその人らしく生きていく」街づくりの伴走者として活動中。